正義のダンス

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正義のダンスは楽しいわ
間違ってるあいつに
正義の鉄槌をくだすの
みんな私を支持してる
ほら このいいねがその証です

 

くるくるくるくる回って
くるくるくるくる踊るよ
正義のダンス

 

ペアはいらない踊るのは私
汚いものは
さわりたくないもの
そんなものは
ブロックしましょ そうしましょ

 

社会を良くするためならば
あんな考え排除しなきゃね
ついでにこんな言葉もね
異論は認めん
不純な物はいりません
デリートしましょ さようなら

 

文脈なんて?
そんな曖昧なもの
関係なんて?
そんな不確かなもの
私は絶対的な正しさがほしい

 

くるくるくるくる回って
くるくるくるくる踊るよ
正義のダンス

 

痛快に正論を突きつけて
華麗な一撃を決めるわ
みんな私に文句は言えない
だって私は正しいから

 

 

椅子の一日

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椅子の朝は早い。 まずはパジャマを着たお尻を支える所から始まる。

半分寝ている体はめんどくさそうに椅子を引きずったり、 時には勝手に椅子の脚に足の小指をぶつけ、 理不尽に怒りをぶつけてくることさえある。しかし椅子は言う。

「しょうがないですよ。椅子にも人間にも色々ありますから」


朝は時間との戦いだ。 ニュースを見ながら急いで朝食を口にかきこむヒトを、 5分ほどしっかりと支える。 その後はだいたいコーディネートで気に入らなかった上着や顔を拭 いたタオル等を背もたれに預かる。 預けられた上着やタオルの有無で、今日の調子が分かるそうだ。 調子のよい日には、朝のうちに全て片付けて出て行く。一方、 悪い日はたくさん物を預けたままだ。しかし椅子は言う。

「私に物を預けることで負担が減るなら、 大変な時はいくらだって預けてくれればいいんですよ」


昼から夜の間は主に、猫の気まぐれに付き合ったり、 赤ちゃんが立ち上がる訓練を手伝ったりする。 猫が爪を研ごうとすると毅然としかし丁寧に抗議したり( 聞き入れてはもらえないが)、 両親が見る前に赤ちゃんが何度も立ち上がる支えになったりと忙し くしている。たまに蟻など、 外からのお客様の食料さがしにも協力する。そうこうしていると、 あっという間に日が落ちる。


今日も忙しい一日だった。

しかしそんなことは言ってられない。ここからが大仕事である。 帰って来たヒトの仕事で疲れた体を包み込むように支える。 よりかかる背中は朝よりも大分重くなっている。 きっと大変な一日だったのだろう。 そんな背中をしっかりと受け止める。 ご飯を食べると少しだけ重みが加わっていく。 椅子はじっと重みを受け止める。

「食べるって、どういう感じなんでしょうね。」


夜が更ける。

また朝がはじまる。

 

その週末、この家ではめったにならないインターホンが鳴った。

何か大きなものが届いたようだ。

配達員が2人がかりで運んできたもの、それはソファだった。

 

 

 

増えすぎてしまった私たちは

 

 

私たちは死んでもいつも何かの一部だったし

何かはいつも私たちの一部になった

あるときまで世界はそういうところだった

いまも一部はそうだ

どうやら宗教だか社会だかの都合で

私たちは死んで燃やされることになった

あるいは別の信仰を持つところでは

燃やすことは禁じられているらしい

少なくとも私たちは燃えて煙になり空に飛んで行く

けれどその煙は宇宙空間には出ることはなく

地球の大気の中をふんわりと漂って

やっぱり私たちの滓らしい

多分雨に溶けて降ったり

雲の一部になったり

オゾン層に飛んで行ったり

破壊してみたり

そういうことだと思うんだけど

だけどそれがたまりにたまって

いつか何かをこわしてしまうとしたら

高い葬式費用を払わせて燃やされるよりも

喜んでどこかで朽ちて何かに食べられることを選ぶ

なんて思ったりする

増えすぎてしまった私たちは

生きていたって死んだって

行き場所に困るようになったようだ

ハワイじゃ移住が増えて家賃があがり

現地の人が家に住めなくなり

日本じゃ死んだ後、埋める場所がなくなった

増えるってのはなんだか大変だ

ばかみたい

くだらないね

今日も非難ばかりの大人達は

似たもの同士 狭い井の中 

いいね押し合い エコーチェンバー

自分の正しさ確かめる

 

否定のうえに成り立つ

薄っぺらな正義なんかに

一体何の価値があるの?

まずは自分を見つめてみたら?

自己肯定のマスターベーション

付き合ってる暇なんて

ありません

 

「多様性」なんて名ばかりで

増えたら憎悪は増すばかり

「正義だ」「社会のため」

って安全な殻の中から

「異常」を攻撃してばかり

どうしてそんなに自分ばっかり

正しいと思ってるの

あっそれは私もそうか

 

でも私は知ってる自分が間違ってるって 

それほんとに?

無知の知を装った陶酔じゃない?

危ないぞ 用心しろ

 

いいことをするのは気持ちいいね

あ、でもまって

それは一体 誰にとっての

いいことなんでしょう?

みんなのため世界のためを装った

自己欺瞞なんじゃない?

自分のために人を使うな

自分のためだと吐いてしまいなよ

 

ばかみたいばかみたい

正義なんて大嫌いだ

ばかみたいばかみたい

いいやつの面したただの傲慢

ばかみたいばかみたい

そんな風に人を傷つけるなら

私はずっと間違えていたい

 

ばかみたいばかみたい

そんなことを思いながら

今日も口を閉ざす

そんな私もばかみたい?

食べるように読む

特に理由はないけど、よしもとばななさんの作品を食べるように読んでいる感覚をずっと持っていた。

 

ある辛い時期、仕事をしている時間、ご飯を食べている時間、お風呂と寝ている時間以外はずっとよしもとばなな作品だけを摂取し続けていたことがあった。仕事がはじまる前も車の中で読んでいたし、読み終わる前にはブックオフに行って、次の本を何冊かストックしていた。それは栄養摂取の一つといっても差支えなかったと思う。特に理由も分からないまま、日々よしもとばななの本を読むことでどこかに踏みとどまっていたんだろうと思う。あるときそれはぴたっと止まって、他の本と同じようなペースで読むようになったけど、今もばななさんの本は目の前にある美味しいデザートを我慢できなくてがっつくような感じで読んで、読後は美味しいものを食べたなあという気持ちで満たされる。どうしてだろうと思っていたけれど、最近吹上奇譚を読んでいて、なんとなくその理由が分かった気がした。多分私は、ばななさんの本に通底する(?)、「(見えないものも含めて)ふんわりと世界を肯定する目線」が好きなのである。少なくとも吹上奇譚では、主人公がもっている、ざっくりと世界を祝福する目線が好きだ。決して「そうしなければいけない」という道徳っぽい感じではなく、あくまで自然体で世界のいいところを見つめ、愛する視点で描かれている気がする。その言葉を体に入れたあと、世界っていいところだなという目線をもって世界と向き合えるというか。そして、多分それが当時私にとっても「そのままでいいよ」と感じられたのかもしれない。だから、私は弱っていたあの時むさぼるように、無心によしもとばななを読み続けていたのかもしれないと思った。そして、今も「そういえば食べてなかったな」という感じで大好きなお菓子を食べるように、ばななさんの大好きな言葉と世界を、頭と体と心に取り込もうとする。その無心に取り込む感覚は、小学生のころ、ハリーポッターやダレンシャンなどのファンタジー小説江戸川乱歩などの推理小説の世界観に入り込むように読んでいた感覚と近いのかもしれないな、と何となく思う。

秋の風

急に寒くなった。

ここ最近朝夕は涼しくなり始めていたものの、夏の抵抗は激しく、先週の土曜日まで日中は30度辺りの気温で外を歩くのが辛いくらいだった。のに、翌日の日曜日になるとそれが嘘だったかのように冷え込んだ。今度はびゅうびゅうと吹き付ける風の冷たさで外を歩くのが辛くなった。冬が夏と秋をまとめて背負い投げてしまったみたいだ。沖縄本島に必死にしがみついていた夏も、迫りくる冬の勢いには勝てずにすっかりと姿を消してしまった。その勢いには人間たちの準備も追いつかず、コインランドリーに急いで冬の布団を回しにいくと、同じように毛布を乾燥機に入れるお母さん(のような人)たちをたくさん見かけた。食欲の秋も読書の秋もまだ味わってないのに、そんな極端な季節の変わり方なんてひどい、もうちょっと余韻に浸らせてくれ、と季節にクレームを出したい(笑)本来自然とは人間なんかにコントロールできないものなので、そんなこと言えること自体が贅沢なんだけども。

 

スウェーデンに留学していたとき、すっかり季節観を改めさせられてしまうことがあった。留学する前は20数年ずっと沖縄に住んでいて、当たり前のように四季があると思っていた。だいたい9月までが夏で、10月が来ると自動的に秋になって、12月頃から冬になる...そんな感じで。だから、スウェーデンで「秋」を発見した時はショッキングだった。街中や森の木々が紅葉したのだ。そこら辺の木にりんごの実もつき始めた。木々は黄や茶に染まった葉を落とし、公園には落ち葉のじゅうたんで遊ぶ子どもたちの姿を見た。「秋だ!!!!」と思った。そこでふと考えた。もしかして、沖縄に秋はなかったんじゃないかと。わたしたちは、学校教育で「四季」という概念を学ぶけれど、それは日本国民として全国統一された教育の中で学ぶことだ。その概念や記号を現実として受け入れて、何となくそれらしい時期になると秋だと認識していたけれど、それは私たちの頭がそう思い込んでいるだけだったんじゃないかと思った。だって、亜熱帯の沖縄では木も紅葉しないし、金木犀の匂いだってしないもの。半袖だし。それは春も同じだった。スウェーデンの長い暗い冬を抜けたとき、春が訪れた。花が一気に咲いて街に人が出てきた。谷川俊太郎の「この気持ちは何だろう」の気持ちが初めて分かった。沖縄には四季はない、そう思うとともに、私は沖縄の人間なんだなということを、強く感じさせられた。

 

といことで、私はスウェーデンから帰ってしばらくの間、沖縄に秋はないのだと思っていた。けれど、今度は沖縄でその季節観を再度改めることになった。就職して、朝散歩を始めた。すると、夏の終わりから冬の間にかけて、季節の変わり目の風が吹くことに気づいた。夏のぬるさを残しつつ、遠くから冬の冷たさを運んでくるような風。この一瞬、あの暑くてむしむしとした夏が行ってしまうことが寂しくなってしまうような風。「秋だ!!!!」と思った。沖縄では秋は分かりやすく目には見えないけれど、そしてとても短い間だけど、風が秋を運んでくる、そう思った。そして、この秋の風を私は愛している。

もう1人の私

最悪だ。生理は。
思考がおぼつかなくなる。

 

血が足りなくなるのか、ぼうっとして意識にもやがかかり、心はじめじめとした曇り空のようになるし、言うまでもなく体はだるい。お腹と腰はもちろん痛いし、足に力が入らなくて胸焼けがする。だから、なのか、これが元々の私なのかしらんけど、思考も低空飛行だ。自分がやることなすこと全て、間違っているような気持ちになる。こんなのがこれからもかなりしばらくの間月一ペースでやってくるなんて、やっぱり最悪だ。子宮をちょんぎってやりたくなる。

 

だけど、頭の隅でいつもと違うこの感じを何かに利用してやれないかと思っている自分がいる。だって、通常モードの私と違う私がいる、ということは、いつもの私と違う考え方を持った自分がもう一人いると言うことだから。良きにつけ悪しきにつけ、いつもの自分と違う考え方ができるに違いないのだ。(確実に理性は弱くなっている(笑))いつもの自分と違う自分がいるってめっちゃよくない?と思ったり思わなかったり。


いい使い道、見つかるといいな〜