秋の風

急に寒くなった。

ここ最近朝夕は涼しくなり始めていたものの、夏の抵抗は激しく、先週の土曜日まで日中は30度辺りの気温で外を歩くのが辛いくらいだった。のに、翌日の日曜日になるとそれが嘘だったかのように冷え込んだ。今度はびゅうびゅうと吹き付ける風の冷たさで外を歩くのが辛くなった。冬が夏と秋をまとめて背負い投げてしまったみたいだ。沖縄本島に必死にしがみついていた夏も、迫りくる冬の勢いには勝てずにすっかりと姿を消してしまった。その勢いには人間たちの準備も追いつかず、コインランドリーに急いで冬の布団を回しにいくと、同じように毛布を乾燥機に入れるお母さん(のような人)たちをたくさん見かけた。食欲の秋も読書の秋もまだ味わってないのに、そんな極端な季節の変わり方なんてひどい、もうちょっと余韻に浸らせてくれ、と季節にクレームを出したい(笑)本来自然とは人間なんかにコントロールできないものなので、そんなこと言えること自体が贅沢なんだけども。

 

スウェーデンに留学していたとき、すっかり季節観を改めさせられてしまうことがあった。留学する前は20数年ずっと沖縄に住んでいて、当たり前のように四季があると思っていた。だいたい9月までが夏で、10月が来ると自動的に秋になって、12月頃から冬になる...そんな感じで。だから、スウェーデンで「秋」を発見した時はショッキングだった。街中や森の木々が紅葉したのだ。そこら辺の木にりんごの実もつき始めた。木々は黄や茶に染まった葉を落とし、公園には落ち葉のじゅうたんで遊ぶ子どもたちの姿を見た。「秋だ!!!!」と思った。そこでふと考えた。もしかして、沖縄に秋はなかったんじゃないかと。わたしたちは、学校教育で「四季」という概念を学ぶけれど、それは日本国民として全国統一された教育の中で学ぶことだ。その概念や記号を現実として受け入れて、何となくそれらしい時期になると秋だと認識していたけれど、それは私たちの頭がそう思い込んでいるだけだったんじゃないかと思った。だって、亜熱帯の沖縄では木も紅葉しないし、金木犀の匂いだってしないもの。半袖だし。それは春も同じだった。スウェーデンの長い暗い冬を抜けたとき、春が訪れた。花が一気に咲いて街に人が出てきた。谷川俊太郎の「この気持ちは何だろう」の気持ちが初めて分かった。沖縄には四季はない、そう思うとともに、私は沖縄の人間なんだなということを、強く感じさせられた。

 

といことで、私はスウェーデンから帰ってしばらくの間、沖縄に秋はないのだと思っていた。けれど、今度は沖縄でその季節観を再度改めることになった。就職して、朝散歩を始めた。すると、夏の終わりから冬の間にかけて、季節の変わり目の風が吹くことに気づいた。夏のぬるさを残しつつ、遠くから冬の冷たさを運んでくるような風。この一瞬、あの暑くてむしむしとした夏が行ってしまうことが寂しくなってしまうような風。「秋だ!!!!」と思った。沖縄では秋は分かりやすく目には見えないけれど、そしてとても短い間だけど、風が秋を運んでくる、そう思った。そして、この秋の風を私は愛している。