#52 雨上がりの朝

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何か違う


昨夜の雨が

空気中の目に見えないちりを

洗い流したような

澄みきった朝


うまく言えないけど

私の気持ちも

何か重いものが

流れて行った

そんな気がする


きっと

昨日の夢だ

感情が溢れだしたから


あの人が死んで

嘆き叫んだ


恋人をとられて

嫉妬に狂った

 


子どもみたいに


いつもの私

じゃないみたいな

私の感情


何の予兆かしら

分からないけど

 


何かが違う

それだけは分かる


#52

#毎日何かを書いてみる

#雨 #朝 #夢

 

#51 愛について考える

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#49で引用した愛に関することばについて私の考えをまとめてみる。

 

#50で書いたように、最近、幸せがこわいな、と思うことがある。
幸せを感じることが悪い、と言うわけではない。幸せは悪くない。
そうではなくて、自分が幸せであるべきであるという考え方が、今の自分の状況やまわりの人への不満につながり、不幸せな気持ちが生まれてしまうんじゃないかな、と思うのだ。

 

わたしたちは(そうじゃない人ごめんね)、無意識に愛や結婚に幸せというものを求めがちである気がする。なぜなら、自分が好きな人と一緒にいるという状態はそれだけで心地よいから。出会ったときや付き合い始めはその人のことを見ているだけで、一緒にいるだけで、話しているだけで満たされた気持ちになれる。だから、この人と結婚すれば、ずっと一緒にいられればどれだけ幸せになれるだろう、と無意識に思う。

 

けれど、一緒にいる時間が長くなればなるほど、相手の嫌なところが見えてくる。それは、初めは自分にとって都合の良い部分(=私が心地よく感じる部分)でしか関わりが無かった相手の都合の良くない部分(=私と違うところ)がどんどん介入してくるから。

 

よくよく考えると、「育ってきた~環境が~違うから~」と山崎まさよしの歌にあるように、全然違うところで生きてきたんだから、考え方とか生き方、好き嫌いが違うのは当たり前だ。自分のスタンダードと違うスタンダードを持っている相手が理解できないのも当たり前だ。だから、結婚(=自分と違う他人と生活を共にする行為)は内田樹の言うように「エンドレスの不快」なんだろうな~と思う(まだしたことないけど)。

 

もし「この人と結婚したとしたら、私は幸せになれるだろう」という無条件の期待を抱いていたとしたら、ここで「あなたといれば幸せである(はず)」という期待と「エンドレスの不快」との間に矛盾が生じる。

 

あなたは私を幸せにしてくれるはずなのに、次々に不快をもたらしてくるのだ。だから、私の期待に添わないことをしてくる相手がどんどん許せなくなる。「なんで~するの?」「なんで~してくれないの?」と。

 

だけど、相手は私とはコミュニケーションの仕方も、考え方も、信じているものも全く違う人間なのだ。だから、どんなに愛し合っていても、大切に思い合っていても、自分の正しさ、心地よさ(=相手にとってはそうではない)の中に相手を当てはめようとしても、その想いは全く伝わらないこともあるし、お互いに傷つけ合ってしまうこともある。

 

私とあなたは根本的には違う人間なのだ。
もちろん、より似ている、よりわかり合える相手、と言うのはあるのだろうけど。

 

それはすごく悲しいことかもしれないけど、内田樹は「あなたと私はわかり合えない人間同士だ。だけどそれでも、あなたとわかり合いたい、あなたに伝えたい」と葛藤しながら共に生き続けるところに意味があるんじゃないかと言っているような気がする。
まさよしも『セロリ』で歌ってるように。それは好きじゃないと出来ないことかもしれないけど。

 

実はこれは夫婦だけではなく、子どもや親、友達など、大なり小なり全ての人間関係に言えるのではないかと思う。

 

そして、中島みゆきが歌うように、自分の価値観における正しさと真逆のこと、社会から認められないようなことすら、その人のためにできてしまうことが究極の愛なんじゃないか(君が笑ってくれるなら、僕は悪にでもなる)、となんとなく考える今日この頃です。

 

#51
#毎日何かを書いてみる
#内田樹
#中野信子
#中島みゆき
#山崎まさよし
#愛

#50 つぎはぎ

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幸せが怖い
幸せになるはずだという幻想は
今に対する不幸せな気持ちを呼ぶから

 

正義が怖い
ふりかざされた正義は
無条件の肯定と排除を生み出すから
ほんとうは絶対的な正義などないのに
それはいったい誰にとっての正義?

 

ごはんを食べる途中眠くなった子どもみたいに地面に突っ伏して眠るユンボ
を思いながら眠気と戦う 
2時間目 なう

 

チューリップのはじらい
に どぎまぎ

 

#50
#毎日何かを書いてみる
#眠い
#チューリップ

#49 愛について

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最近考えさせられた愛についての言葉

 

互いに互いを愛していて、必要とも感じていて、大切に思っている。それなのに、そのことが伝わらない。伝わらないことが、相手を傷つけてしまう。どちらにも悪意があるわけではない。けれども、自分が心地よくいられる状態を作ろうとすると、それ自体が相手を傷つけ、悲しい思いをさせてしまう
—『ペルソナ』中野信子

 

結婚が約束するのはエンドレスの「不快」である

 

結婚とは「この人が何を考えているのか、私には分からないし、この人も私が何を考えているのか、分かっていない。でも、私はこの人にことばを贈り、この人のことばを聴き、この人の身体に触れ、この人に触れられることができる」という逆説的事況を生き抜くことである
—『街場の現代思想内田樹

 

君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる
—『空と君のあいだに』中島みゆき

 

#49
#毎日何かを書いてみる
#今日はうまく言葉が出ないので引用を

#48 青

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潮 引ク
月ノ 引力
生理モ 同ジ
海ノ 中ノ 私
ノ 中ノ 海

 

引イテハ 寄セル
引イテハ 寄セル

 

昔昔 珊瑚 ダッタ
今モ 珊瑚 シカシ 化石
大キナ 珊瑚ノ 化石 シカシ
銀河 デアリ ソシテ 
細胞 デモアリ

 

宇宙ノ 中ノ 世界
ノ 中ノ 珊瑚
ノ 中ニ 宇宙 アッテ

 

世界ノ 中ニ 私 イル
私ノ 中ニ 世界 アル

 

#48
#毎日何かを書いてみる
#海 #珊瑚

#47 死ぬんじゃないかと思った話

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その朝は、世界の終わりが来るのかというほど、美しかった

 

朝露がキラキラと輝き小鳥は木のまわりで戯れ

 

シロツメクサの宇宙の中には生まれたばかりのつるっとした虫が佇む

 

太陽は背中を温め、風は穏やかで、小さな蒲公英は太陽に向かって静かに輝いていた

 

小さく響く鳥のさえずり、虫の声、民家から聴こえてくるピアノの練習の音を背に、私はもう死ぬのではないかと考えた

 

その時それに対する返事のようにカラスがカアカアと鳴き、それに呼応して遠くで子どもたちがカアカアと鳴いた

 

光が、音が、空気が溶けて全てがあるところにあるような
永遠の瞬間

 

向こう側で別の子どもが「あいらぶゆー!」と母親に向かって愛を叫ぶ

 

なんだか私もその一員になってしまったような気持ちになり、親子たちに「おはようございます」と挨拶した(「はろー」と言おうかとも思ったがやめた)

 

若い母親はややとまどった声で「おはようございます」と返してくれたが、子どもたちは黙ってしまった

 

少し申し訳ない気持ちになった

 

と、太陽が刺すように熱くなり始めたので家に退散することにした

 

今日はまだ死なないらしい

 

#47
#毎日何かを書いてみる
#朝 #永遠 #なんかごめん

#46 終わりという希望

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人は慣れる生き物だ。良くも悪くも。

 

それは人間の生物としてのどうしようもない性だと思うし、同時に生きる術でもあるのだと思う。だって、毎日いちいち全部を新しいこととして驚いていたり感動していたら、生きるの大変だもんね。分かる。

 

日常というのは、人が仕事をして、暮らしを作って、生活を続けていくために必要なものである。非日常な毎日を送っているように見える人だって、他の人からみれば非日常に見えるだけで、その非日常がその人なりの日常だったりするのではないかと思う。

 

生活や何かを築くこと、それが続くことは、それが日常になることと同義だ。だから、生きていくということは、どうしても日常化する=「慣れる」ことと切り離すことができない。

 

しかし、日常というのは当たり前にあるものではなくて、私たちが毎日生活を続けることによって築き上げられているものであって、それは実は脆く永遠に続くものではない、ということも事実。私たちがそれをやめればその時日常は崩壊する。

新型コロナウィルスの拡大は、そのことを我々に強烈に突きつけた。

 

日常は変わりうるし終わりうる。

 

それを自覚したとき、日常の中にあった些細なことの意味が変わる。

 

友達と会ってお茶をしながらだらだらとくだらない話をすることがどれだけ楽しいことだったか。

 

何の気兼ねもなく祖父母の家にふらっと寄れることがどれだけ特別なことだったか。

 

新型コロナウィルスの拡大は皮肉にも、我々の日常の中にあったキラキラとしたものを我々に実感させる契機になった。
まあ、それにも慣れてしまうのだけれど。。。

 

我々は終わりを知ったときに日常の特別さを知る。
それは、新型コロナウィルスだけでなく、沖縄の首里城の火災にも言えることではないかと思う。

 

もちろんそうでない人もいたと思うけど、首里城が無くなったときはじめて、首里城が当たり前にある日常の尊さに気付いて愕然とした人は多いのではないだろうか。

 

これはあくまでも私のごく個人的な意見だけど、首里城は再建されないほうがいいと思っている。なぜなら、ないということがその存在を強烈に意識させるから。あるときっと慣れてしまうときがくるから。

 

新しく立派な首里城ができると、初めはみんな喜ぶと思うけど、だんだんその首里城があることに人は慣れてしまうだろう。まあ、その慣れも含めて人間だし、皆の強い思いを持って首里城を再建することも悪くないだろうな、とは思うけれど。

 

つまり、日常は決して当たり前に存在するものではないけれど、それに慣れて当たり前としてしまうのが人間の常だ。

 

けれど、同時にその日常が当たり前でないこと、終わりがあることを意識し、日常の特別さに気付く想像力を持つことができるのもまた人間だ。人間は、まだ来ていない終わりを想像することが出来る。しかも、コロナだとか火災がなくても。当たり前のものに見える日常が変わり得るものだと言うことを知っていれば、目の前にうつる世界は違う意味を帯びてくる。引っ越すことが分かっているアパートから見える海がこれまでより綺麗に見えてしまうように。

 

そんなことが出来る人間に希望を抱いてしまうし、世界っておもしろいな、もっと生きていたいなと思う。

 

#46
#毎日何かを書いてみる
#終わり #mementomori