#51 愛について考える
#49で引用した愛に関することばについて私の考えをまとめてみる。
#50で書いたように、最近、幸せがこわいな、と思うことがある。
幸せを感じることが悪い、と言うわけではない。幸せは悪くない。
そうではなくて、自分が幸せであるべきであるという考え方が、今の自分の状況やまわりの人への不満につながり、不幸せな気持ちが生まれてしまうんじゃないかな、と思うのだ。
わたしたちは(そうじゃない人ごめんね)、無意識に愛や結婚に幸せというものを求めがちである気がする。なぜなら、自分が好きな人と一緒にいるという状態はそれだけで心地よいから。出会ったときや付き合い始めはその人のことを見ているだけで、一緒にいるだけで、話しているだけで満たされた気持ちになれる。だから、この人と結婚すれば、ずっと一緒にいられればどれだけ幸せになれるだろう、と無意識に思う。
けれど、一緒にいる時間が長くなればなるほど、相手の嫌なところが見えてくる。それは、初めは自分にとって都合の良い部分(=私が心地よく感じる部分)でしか関わりが無かった相手の都合の良くない部分(=私と違うところ)がどんどん介入してくるから。
よくよく考えると、「育ってきた~環境が~違うから~」と山崎まさよしの歌にあるように、全然違うところで生きてきたんだから、考え方とか生き方、好き嫌いが違うのは当たり前だ。自分のスタンダードと違うスタンダードを持っている相手が理解できないのも当たり前だ。だから、結婚(=自分と違う他人と生活を共にする行為)は内田樹の言うように「エンドレスの不快」なんだろうな~と思う(まだしたことないけど)。
もし「この人と結婚したとしたら、私は幸せになれるだろう」という無条件の期待を抱いていたとしたら、ここで「あなたといれば幸せである(はず)」という期待と「エンドレスの不快」との間に矛盾が生じる。
あなたは私を幸せにしてくれるはずなのに、次々に不快をもたらしてくるのだ。だから、私の期待に添わないことをしてくる相手がどんどん許せなくなる。「なんで~するの?」「なんで~してくれないの?」と。
だけど、相手は私とはコミュニケーションの仕方も、考え方も、信じているものも全く違う人間なのだ。だから、どんなに愛し合っていても、大切に思い合っていても、自分の正しさ、心地よさ(=相手にとってはそうではない)の中に相手を当てはめようとしても、その想いは全く伝わらないこともあるし、お互いに傷つけ合ってしまうこともある。
私とあなたは根本的には違う人間なのだ。
もちろん、より似ている、よりわかり合える相手、と言うのはあるのだろうけど。
それはすごく悲しいことかもしれないけど、内田樹は「あなたと私はわかり合えない人間同士だ。だけどそれでも、あなたとわかり合いたい、あなたに伝えたい」と葛藤しながら共に生き続けるところに意味があるんじゃないかと言っているような気がする。
まさよしも『セロリ』で歌ってるように。それは好きじゃないと出来ないことかもしれないけど。
実はこれは夫婦だけではなく、子どもや親、友達など、大なり小なり全ての人間関係に言えるのではないかと思う。
そして、中島みゆきが歌うように、自分の価値観における正しさと真逆のこと、社会から認められないようなことすら、その人のためにできてしまうことが究極の愛なんじゃないか(君が笑ってくれるなら、僕は悪にでもなる)、となんとなく考える今日この頃です。