#46 終わりという希望

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人は慣れる生き物だ。良くも悪くも。

 

それは人間の生物としてのどうしようもない性だと思うし、同時に生きる術でもあるのだと思う。だって、毎日いちいち全部を新しいこととして驚いていたり感動していたら、生きるの大変だもんね。分かる。

 

日常というのは、人が仕事をして、暮らしを作って、生活を続けていくために必要なものである。非日常な毎日を送っているように見える人だって、他の人からみれば非日常に見えるだけで、その非日常がその人なりの日常だったりするのではないかと思う。

 

生活や何かを築くこと、それが続くことは、それが日常になることと同義だ。だから、生きていくということは、どうしても日常化する=「慣れる」ことと切り離すことができない。

 

しかし、日常というのは当たり前にあるものではなくて、私たちが毎日生活を続けることによって築き上げられているものであって、それは実は脆く永遠に続くものではない、ということも事実。私たちがそれをやめればその時日常は崩壊する。

新型コロナウィルスの拡大は、そのことを我々に強烈に突きつけた。

 

日常は変わりうるし終わりうる。

 

それを自覚したとき、日常の中にあった些細なことの意味が変わる。

 

友達と会ってお茶をしながらだらだらとくだらない話をすることがどれだけ楽しいことだったか。

 

何の気兼ねもなく祖父母の家にふらっと寄れることがどれだけ特別なことだったか。

 

新型コロナウィルスの拡大は皮肉にも、我々の日常の中にあったキラキラとしたものを我々に実感させる契機になった。
まあ、それにも慣れてしまうのだけれど。。。

 

我々は終わりを知ったときに日常の特別さを知る。
それは、新型コロナウィルスだけでなく、沖縄の首里城の火災にも言えることではないかと思う。

 

もちろんそうでない人もいたと思うけど、首里城が無くなったときはじめて、首里城が当たり前にある日常の尊さに気付いて愕然とした人は多いのではないだろうか。

 

これはあくまでも私のごく個人的な意見だけど、首里城は再建されないほうがいいと思っている。なぜなら、ないということがその存在を強烈に意識させるから。あるときっと慣れてしまうときがくるから。

 

新しく立派な首里城ができると、初めはみんな喜ぶと思うけど、だんだんその首里城があることに人は慣れてしまうだろう。まあ、その慣れも含めて人間だし、皆の強い思いを持って首里城を再建することも悪くないだろうな、とは思うけれど。

 

つまり、日常は決して当たり前に存在するものではないけれど、それに慣れて当たり前としてしまうのが人間の常だ。

 

けれど、同時にその日常が当たり前でないこと、終わりがあることを意識し、日常の特別さに気付く想像力を持つことができるのもまた人間だ。人間は、まだ来ていない終わりを想像することが出来る。しかも、コロナだとか火災がなくても。当たり前のものに見える日常が変わり得るものだと言うことを知っていれば、目の前にうつる世界は違う意味を帯びてくる。引っ越すことが分かっているアパートから見える海がこれまでより綺麗に見えてしまうように。

 

そんなことが出来る人間に希望を抱いてしまうし、世界っておもしろいな、もっと生きていたいなと思う。

 

#46
#毎日何かを書いてみる
#終わり #mementomori