#13 沖縄と私
「あなたも沖縄の人ならうちなーぐちをやるべきだよ」
私と沖縄を想って発されたこの言葉にずっと違和感を抱えてきた。
この言葉は決して間違っている訳ではない。うちなーぐちは、世代を経るにつれて少しずつ話せる人が減って来ている。このまま話す人がいなくなると無くなってしまう。大学で言語学をかじった人間だから、言葉がその場所、人間のアイデンティティと密接に関わっていることは知っているし、ある言葉を持たなければ人はそれを認識できないということも知っている。沖縄のことは好きだ。
だけど。
その言葉を言われたとき、もやっとした気持ちが心の中に広がったのだ。そのことは、その人が私のことを考えて言ってくれたこと、うちなーぐちを学ぶことはいいことと言われる昨今、みんながそれを守ろうとする中、なかなかそれを言葉にすることは難しかった。
だけどあるきっかけがあって、ここ最近、自分なりにそういう違和感について掘り下げている。
だからここで少し理由を考察してみようと思う。
1つには、もしかすると私がもう「うちなーぐち」というものそれ自体から切り離された存在だからかもしれない。
私のおじいちゃんおばあちゃんは、母方父方両方うちなーんちゅだけど、どちらもほとんどうちなーぐちを話さない。だから、父も母もどちらもそんなにうちなーぐちを話す人ではなかった。そういう訳でそもそも、そんなにうちなーぐちは体に馴染んでいるわけではない。足の小指をぶつけたら「あがっ」とか、そういうレベルでは入っているけど。
だから、うちなーぐちを守る社会的な重要性について頭では理解していても、体が追いつかないのかもしれない。なぜなら、私と沖縄とのつながりはうちなーぐちという言葉で支えられている訳じゃないから(もちろん一部はそうだけど)。食べ物だったり、気候だったり、海だったり、自然だったり、一部のなんちゃってうちなーぐち単語だったり、そういうものに、あまり意識しないままに作られて来た。
もう1つは多分、アイデンティティを押し付けられたように感じたから。うちなーぐちはうちなーんちゅのアイデンティティだ。だから、うちなーぐちを話すべきだし守るべきだ。みたいに。だけど残念なことに、私はうちなーぐちで育った訳ではないし、当たり前のようにそれを言われるのがなんだか変な感じだった。そして私は自分の在り方をそんなふうに安易に人に、与えられる「アイデンティティ」に決められたくなかった。
そういうことを言うと、不快に思う人もいるかもしれないけど、私は決してうちなーぐちを学ぶことや守ることを否定したい訳ではない。それはとても立派なことだと思う。だからこれはごく個人的な話だ。
そして、やっぱりその上に成り立って来た沖縄の上に生まれた自分は、これまで築かれてきた過去や伝統を無視することはできないと思う。
そういうものとどう付き合っていくかはこれから少しずつ見つけていこうと思う。
今、個人的にめちゃめちゃ真剣にこれからの沖縄のあり方、未来について考えている。いつかそういうことも書いていきたいと思う。