ことばを持たない者たちの物語『ことり』『言葉の誕生を科学する』
人間がことばを手に入れたことで失ったものは何だろう。
恐らく、ことばを手に入れたことで人間だけが過去と未来、そして死について思いを馳せることができるようになった。自分、というものを自分で考えることができるようになった。
そしてそれと引き換えに、まじりっけのない今そのものに耳を澄ませ、生きることが出来なくなったのかもしれない。
自分はどう生きるべきだろうか、将来自分はどうなるのか、人は自分をどう見ているのだろうか。自分はこの仕事をしているべきなのだろうか。
こういうことを考えることができるようになった。
逆に、こういうことを考えることで、今目の前にあるものがおろそかになることがある。
『ことり』に出てくるお兄さんは、子どものころ人間の言葉が使えなくなり、他の人と話すことが出来なくなる。代わりにことりの言葉「ポーポー語」が使えるようになり、小鳥達と意思疎通ができる。唯一、その弟(ことりの小父さん)だけがお兄さんの話すポーポー語を理解することができる。
小鳥たちは、両方の目で世界を良く見て、よく考え、環境に文句を言うことなく、自分たちの体の中から出てくるリズムに合わせ、求愛の歌を歌い、冬越えをし、生きて、死んでいく。
小鳥と同じ言葉を話すお兄さんは、小鳥と同じように決して不平を言わず、ただ、小鳥達のさえずりにじっと耳を傾け、1日の決まったルーティーンを欠かすことなく、1つ1つを丁寧に淡々と繰り返していく。
小鳥とお兄さんと生きてきたことりの小父さんも同じように、毎日必要なことを一つ一つ丁寧にこなし、小鳥の声に耳を澄ませようとし、虫、本などを通して世界に耳を澄ませようとする人々に惹かれて生きている。そんな小父さんは人間の言葉をしゃべる社会と一瞬つながったり、ずれたりしながら、結局そこに馴染むことはなく死んでいく、と言っていいのかもしれない。
ことりとお兄さんとことりの小父さん。
そんな「ことばを持たない者たち」の物語を読んで、私たちが得られるものは何だろう。
それは、私たちが失ったもの、彼らが見ている世界。
自分の内、外にあるものにじっと耳を澄ませること、目の前にある世界を丁寧に生きることかもしれない。
私たちはもう自分たちのことばを手に入れてしまった。
そうでない状態に戻ることはできない。
『ことり』の創作のきっかけとなった対談集『言葉の誕生を科学する』で紹介された「フェルミのパラドックス」では、言語を持ってしまった人類は原子力を使えるようになり、滅びると言われているらしい。
ことばは人を惑わし軋轢を生み、時には破壊をもたらすものである。
だけど、ことばは同時にその逆を生み出すことが出来る。現実を変えることが出来る。
ことばを持ってしまった私たちは
ことばによって失われたものを見つめながら、
ことばと向き合いながら
その可能性をひろげていきたいな、と思う。