クソの美しさ ~どうして私は菊次郎を嫌いになれないのか~

夏になってから久石譲のSummerを聴くことが増えて、それで北野武の『菊次郎の夏』を観た。

 

両親のいない少年が、夏休みに近所のおじさんと一緒に母親を探しに行く話。

 

このおじさん(菊次郎)が、気持ちいいほどのクズ。

菊次郎の奥さんは、母親に会いたい少年を助けるために、自分の夫=菊次郎に5万円を渡し、一緒にお母さん探しに行かせる

 

が。。。

 

あろうことか、菊次郎はその5万円を握り少年を連れて、競馬場に直行する。

たまたま少年の言った数字が大当たりすると、そのお金で少年を連れてキャバクラに行き、ラブホテルで一緒に寝泊まりする。そしてその次の日も、次の次の日も競馬場に行き、少年に数字を言わせ続ける。やっと母親の住む愛知に向かい始めたと思ったら、ヒッチハイクに応じないトラックに石を投げつけて運転手と喧嘩したり、人の弁当を盗んだり、畑からトウモロコシを盗んだり…

 

ほんとにクソ(笑)

 

ゴタゴタを繰り返しながら、何とかお母さんの住んでいるであろう住所にたどり着くと、母親には新しい家庭があり、子どもがいた。

 

ショックを受ける少年を何とか元気づけようとする菊次郎。

実はあれはお母さんじゃなくて、お母さんは遠くに引っ越したけど、これを君にと言っていた。と言って、天使のキーホルダーを渡す。

寂しくなったらこの天使を振りな。と。

 

…それ、バイカーの青年が彼女からもらったものをひったくったやつなんだけどね(笑)

 

結局少年は母親と再会できず、2人はバイカーたちや日本一周をしている青年を巻き込んで河原で過激なキャンプをしたり、お祭りにいったり(して菊次郎は地元のヤクザと喧嘩をしてやられたり)して、東京に帰ってくる。

 

決してハッピーエンドではないし、菊次郎は最後までずっとクズのまま。

 

だけどなぜか、見終わった後いい話だったなあと思ってしまう。清々しい気持ちになる。

クズな菊次郎を嫌いになれない。

 

何でだろう、と心の隅に引っかかったままブックオフに行ったら、

たけしさんの書いた『愛でもくらえ』というエッセイ集があってつい買ってしまった。

愛でもくらえ…ちょっとキュン(笑)

 

読んでみた。

うわあ、好きだなあと思った。

 

売れたら結婚した妻のところには帰らず色んな「お姉ちゃん」達と「やりたい」と言って付き合う。

そんなお姉ちゃんたちと別れるときには何百万円の金を渡して別れる。

 

とか、現代社会の一般的な倫理観からすると

ぶっ飛んでることを言ってたりやってたりする。

 

だけど、

そこにはたけしさんの生き方があって

いつでも自分自身で自立していないといけないという孤独感や人間関係から得をもとめず損をする覚悟、人間関係の流動性を受け入れたうえで相手と闘う(向き合う)という

芯の上に成り立っている。

 

その行動は社会の一般常識からいうと「クソ」なのかもしれないけど、

自分の芯を貫き、常識にとらわれることなく目の前の人たちと向き合う姿勢、

その貫きに色気さえ感じる。

 

一般常識の良い悪い、ではなく

清か濁か、ではなく

自身と世界、人との関わりにおいて

自分がよしとすることをしているか、それを貫くことができるか。

清々しいぜ、たけしさん。

 

もしかしたら

菊次郎は菊次郎なりのそういうものをもっていたのかもしれない。

 

…やっぱりクソだけどね(笑)