『もののけ姫』を観てきた~世界は理不尽だ、それでも。~

(だいぶ)先日、「一生に一度はジブリで映画館を」ということで、『もののけ姫』を映画館で観てきました。以下感想です(長文注意)。

 

もののけ姫の世界は悲しい。

アシタカとサンはどうしようもない理不尽を受けて生きている。アシタカは村を守ったにもかかわらず、死の呪いを受け、村を離れることになった。サンは山犬から逃げる両親に生贄にされ、人間を憎みながら山犬として生きてきた。

同じようにこの映画に出てくる多くの人・もののけ達は、そのような苦しみ・悲しみを受けて生き・死ぬ。エボシに森を破壊され、それを守るために銃で撃たれ痛み苦しみの中でタタリ神になってしまった森の主。侍に襲われる村の人々、洪水や地滑りで無くなった村の人々。タタラ場で働く女性や病人たち。森を守ろうと負け戦に挑む猪達。

 

それらの理不尽の帰着するところは、人間の業のような気がする。

世界は弱肉強食であり、環境に適応できないものは淘汰される。これは自然界の摂理である。世界はもともと優しいわけではなく、(シシ神のように)生と死の両面を併せ持っている。食い食われるし、自然災害が起きればたくさん死ぬ。

しかし、この物語では、恨み悲しみを産みだす理不尽の原因として、人間の業が一つの大きな要因であるように思われる。アシタカはエボシが打った弾丸が元で生まれたタタリ神に呪いをうけ、サンも人間の両親の愚かさによって今の境遇を受けている。エボシも倭寇に身売りされ主人を殺して逃げ、男たちに支配されない集落を実力で作りあげている。おそらく、洪水や地滑りで無くなってしまった村も、開墾によって地盤がゆるみ、天災が起こったという考え方もできる(考えすぎかもしれないけど)。

生きるということを越えて権力・財力・武力・知識などを拡大・充足させようとする営み。

それは一方で豊かさを生み出し、他方で弱者に対する(拡大された)理不尽を生み出す。弱者は自己責任以上の、世界との繋がりの中で受ける以上の理不尽を受けることになるのではないか。

 

そのような業のなかに自然を巻き込む力を人間が獲得した一つの例として銃器・タタラ製鉄が挙げられると考えられる。タタラ製鉄は山を開墾して鉄の原料を取り出し、川を汚すことによって大量に鉄を生み出す。つまり、森を破壊しその住人を追い出す。同時に、鉄によって人間は森の住人を超える力を手に入れている。しかし同時に、このタタラ製鉄は、エボシの集落にいる、かつて理不尽にあっていた女や病人たちに生きがいや住む場所、食べ物を与え、救いとなっている。これらの社会における弱者たち(身売りされた女たちや病人たち)が幸せに暮らす村を作るには、侍たちに負けない武器や富が必要で、その方法がタタラ製鉄やそこから生み出される銃器だったと推測できる。その意味で、エボシのリーダーとしての力はすごい。

 

ただ、タタラ場がタタラ場である限り、森の開墾は止まらず、もののけたちはそこから追い出されていく。タタラ場がタタラ場である限り、人間と自然は相容れることができない。だが、エボシと女たちにとっては、タタラ場がタタラ場であることによって侍や彼女たちを蹂躙しようとする理不尽と戦うことができる。ここで、森とタタラ場の生は完全に相対している。その状況に対してアシタカは問う。「お前の撃った猪の痛み・苦しみが分かるか。」アシタカは人間を恨んだタタリ神の呪いを受けた者として、森と人間の両方の立場を平等な目で見る者として、もののけたちの痛み、苦しみ、怒りを受け止めている。だが同時に、タタラ場で暮らす人間たちの幸せをエボシが守っていることも知っている。その上で、森の主シシ神を討ち取ろうとするエボシにアシタカは言う。「憎しみの連鎖を生み出すな」「森と人間が共に生きることはできないのか」

 

だが結局エボシを止めることはできず、シシ神の首は取られてしまう。

 

首を捕られたシシ神は森やタタラ場を死で覆いながら首を追いかける。

首を持って逃げるじこぼうに追いついたサンとアシタカはどうにかシシ神に首を返し、シシ神は鎮まり朽ちた山に草が生えてくる。しかしかつての森はなくなりタタラ場は破壊されている。たくさんの犠牲、取り戻せない森とほんの少しの希望。

それでも。アシタカは言う。「共に生きよう。サンは森で、私はタタラ場で。」

 

何で共に生きるのって難しいってことになっちゃうんだろうね。

でも世界とは、基本的にそういうものなのかもしれない。動物は生きるために食い食われる。

ヒトの好奇心や発展への大志は、新たな知識や富を生み出すとともに自然の破壊や貧しいものを作り出す。欲は他者の欲とぶつかる。

今だってもちろん、そういうことは起こっている。

 

そういうものに簡単に気づかないもしくは悲しいと思えるような感性を人間に持たせる現代社会こそが奇跡(であり幻想)なのかもしれない。

 

世界は悲しくて苦しい。理不尽である。誰も悪くない状況に見えてもぶつかってしまうことがある。だけど、ひどい理不尽を身にうけ、絶望的な状況でもなお、それでも憎しみの連鎖を止めて共に生きようと叫び続けるアシタカ。

 

不条理な世界に向って『それでも』と言える人間に私もなりたい。