悲しみと怒りにひそむまことの心

もののけ姫」を今日観に行ってきます。

それにあたり、もののけ姫の制作の様子を収めた7時間のドキュメンタリーを観た。

 

すごかった。

 

7時間という時間を感じないくらいに見入ってしまった。

(嘘。たまにあと何時間残ってるかな~と気にしながら見る部分もあった(笑))

 

今、この人はどういう気持ちで何と対峙していてどんな動きをするのか。その動きの時にどんな筋肉が動くのか。その気持ちは表情に出るか、それとも我慢しているのか。

アニメーションにすると一秒に満たない一枚一枚の絵で、画面に映る世界との対峙がある。そうして、宮崎駿さんとたくさんのスタッフで1か月かけてわずか5分間の世界ができあがる。

 

結論は決まっているのでなくて、その対峙を繰り返していくなかで映画のストーリーが形作られていく。制作後のインタビューで、駿さんは、自分が何を作ったか自分でも良く分かっていないと言っていた。

 

そういう一つ一つの細部や作業、出てくる言葉の一つ一つに感動した。そこは多すぎて書ききれないから、是非観てみてほしいと思う。今回は、このドキュメンタリーを通して新しく見えた(ように思える)「もののけ姫」の姿について書きたいと思う。

 

もののけ姫」は、小さい頃観てから、これまで私にとってジブリ作品の中でも特に繰り返し観るようなものではなくて、私にとっては、「サンとアシタカの物語」「文明(人間)と自然(神)の対立」を描いた壮大な映画というイメージだった。もちろん、映画は見る人、状況で色んな見方ができるし、これまでの私の見方もありだと思う。ただ、今回このドキュメンタリーを観て、新しい見方が加わったと感じている。

 

まず、今回ドキュメンタリーの中で心に残ったのは、これが「呪われた子どもたちの話」であることと、「生きろ」という言葉だった。

 

宮崎さんによると、サン(生贄として森に捧げられた)とアシタカ(タタリ神の呪いを受けて村を離れた)はどちらも「必要とされない子」=その存在を世界から否定されるという呪われた運命を背負っている。(そういう意味では倭寇に身売りをされたエボシも似ているかもしれない)

 

それでも、アシタカの「生きろ。そなたは美しい。」という言葉や「ともに生きよう。」という言葉が示すように、この2人は生きなければならない。

 

それから、ドキュメンタリーを観ているうちに、この話の中にははっきりとした善悪対立がないような気がした。

それぞれの人物に、運命、役割、考えがあって、その道に突き進むうちに道と道がぶつかってしまう。神を殺すエボシのことを監督は唯一この映画で近代的な考えを持つと言っていたけど、エボシの行動は神にも侍にも依らない、自分たちの国を作るという信念に貫かれている。そのエボシと、山の自然と神と寄り添って生きてきたサンはどうしても相容れない。だけど、どちらも一つの生き方。

 

そういう、世界の優しくなさや、分かり合えなさという不条理の中でぶつかり合いながら、だけど人はそれでも生きていかなければならない。それでも生きていくということが、表れているのではないかなと思った。

 

今から観て、確かめてみたいと思う。