(本)裸足で逃げる~沖縄の夜の街の少女たち~

裸足で逃げる~沖縄の夜の街の少女たち~

上間陽子

 

「私たちは生まれたときから、身体を清潔にされ、なでられ、いたわられることで成長する。だから身体は、そのひとの存在が祝福された記憶をとどめている。その身体が、おさえつけられ、なぐられ、懇願しても泣き叫んでもそれがやまぬ状況、それが、暴力が行使されるときだ。そのため暴力をうけるということは、そのひとが自分を大切に思う気持ちを徹底的に破壊してしまう。」(6)

 

小学校の時、中学受験をした。といっても、学問的なことから私立中学をめざす、とかそういうことではなく、校区の中学校の治安があまり良くなくて「ヤンキーがいる」という噂を聞いて、いじめられるのが怖いと思ったから、国立大学の附属中学校を受けてみたら受かってしまった。進学先の中学校はパイロットとか先生とか医者とか、私が通っていた小学校よりも経済的に恵まれているお家の子たちが多かったと思う。そういう中学校でも、化粧をしてスカートの短い大人びた先輩たちがいて、色々な噂の中に「○○先輩は援交をしてるらしい」とかそういう噂があったりした。本当はどうか分からないけど。

 

この本の中に出てくる女性たちは、15歳~17歳で妊娠したり、生計を立てたり子どもを育てるためにキャバクラで働いたり援助交際をする。DVの家族から逃げて付き合った恋人にDVをされたりする。そしてそれを乗り越えたり乗り越えなかったりして生きている。ただ、それを簡単に「かわいそう」なこととして片づけるのは違うのかな、と思う。この人たちについて帯で岸正彦さんは言うように「それぞれの人生のなかの、わずかな、どうしようもない選択肢のなかから、必死で最善を選んでいる」という。「最善」かどうかは分からないけど、この人たちはこの人たちの目の前にあった環境や起こった出来事の中で、選択をして生きている。それをこちらの一方的な目線でかわいそうというのは違う気がする。ただ、私は、このような思い、経験をする人達がまた出てくることは肯定できない。

 

教育格差や経済格差は物理的にも精神的にも人に影響を与える。それを克服する人も、そうでない人もいる。ただ、家族とお金と教育を困らずに受けてきた人に比べると、自動的に外側から与えられる(=当たり前のものを当たり前に持っている)という肯定感と、社会的境遇のベースは異なってくる。そのような境遇が循環して子どもに対する暴力やネグレクト

になると、上の引用のように、その人が自分を大切に思う気持ちも失われてしまうのかもしれない。ただ、経済や教育だけでこのような問題が解決する、というのも少し違う気がする。結局一番大事なのは、自分自身の存在を認められる人間関係があるかどうか、自分自身の存在を自分が認めてあげられるかというところのような気もする。それって、社会がどうのの問題ではない。でも、そういうところをどうやって社会の在り方、制度の在り方でサポートしていけるのかも大事だと思う。建物の構造が人の行動を変えるように、制度や社会が人を変えることもできるとは思うから。

 

まだ言葉にならないもやもやを頭の隅に残したまま、考え続けたいと思う。

まずはこのようなことがある、ということを知れてよかったと思う。