待つという能動

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来るかもわからない君を待つ。そんなの辛いだけって思っていたけれど、いつか君が来るかもしれないと思いながら待てるというのは幸せなことなのかもしれない。世界は私の頭の中ではないから思った通りにはいかない。そのことが嬉しい。またひとつ、世界の顔を見ることができるから。思い通りにいかず、私はまた考える。「どうしたらいいだろう」そしてまたひとつ足を出す。うまくいくかも分からない未知の領域に向かい、あっているかも分からない選択と一緒にとまどいとまどい。人から見たら馬鹿みたいだと思われるかもしれない。効率的でも論理的でもない無駄なことに見えるかもしれない。でも私は確かに何かを掴む。分からないことも含めて。そして待ち続ける度に見えない何かが刻まれる。私の中に、世界に。それは愛なんだろうか。分からないけれど。
待つという能動。

#猫 #cat #waitingforgodot #love

ミルクティ

「ミルクティ」

アブダカタブラ
ねむれないよるに
ま女のかあさんは
あったかくてあまあい
まほうのミルクティを
つくってくれます
わたしはそのミルクティをのむと
あんしんしてねられます
わたしはそのミルクティがだいすきです

 

あれから20年以上経ちました
大人になった私は
仕事帰り喫茶店でミルクティを頼みます
運ばれてきたミルクティは
あの日と同じで
私をほんわりほぐします
今夜もよく寝られそうです

 

アブダカタブラ
母のかけたやさしさの魔法
どうやらまだ効いているみたい

後悔を抱きしめる

—僕は、正しく傷つくべきだった—

「ドライブ・マイ・カー」

 

 まだ声が発せる頃、誤嚥性肺炎で入院していたおばあちゃんが病院で怒り交じりに発した「家に帰りたい」という求めに応えることができなくて後悔し続けていたことに、おばあちゃんの死から7年経った今気がついた。あの時私はそれがしょうがないことだと思おうとしていたけど、本当はもっと何かできたんじゃないかと、心のどこかで思い続けてきたらしい。そして心の別のどこかは後悔を認めることが出来なくて、後悔を自分に対して隠してきたらしい。

 

 実際、両親が離婚して私と妹も学校に通っていたあの状況で、本当に私一人の力でおばあちゃんを家に連れて帰れたかどうかは分からない。けれど、多分実際にそれができたかどうかじゃなくて、自分の心に対して、おばあちゃんの訴えに対して、自分が悔いのないところまで考えることが大切だったのだろうと思う。私はあの時、「短期間はできたとしても、その状況がいつまで続くか分からない」という母の言葉に脅え(甘え)、深く考える前に出来ないと諦め、考えることから逃げた。生まれてこの方最上級に大好きだった人の、私にだけこぼした、たった一度の、訴えから。私は大きな過ちを犯したのだ。後悔している、と気付いた今この時から、私はこの失敗を一生抱えていくのだろう。

 でもそれでいいのだとふと思った。後悔や失敗は持ち続けていいものなんじゃないかって。不思議と、後悔の気持ちを受け入れることのできなかったこれまでよりもずっと爽やかな気持ちだった。

 

 特に介護中~祖母の死後、終末期の医療のありかたについて延命優先ではなく患者の意思や人生を優先できるように変わっていくべきだと考えていた。そうでなければ、うちのおばあちゃんのように管に繋がれてミトンをされる辛い(ように見える)延命治療は無かったのにって。今でも基本的にその考えは変わらない。できるだけ、患者が苦しい思いをしてただ命を伸ばされているような状況が少しでも減らせればいいと思う。

 

 けれど私が延命治療のありかたに固執していた一番の理由は、おばあちゃんの言葉に対して、(YESにしろNOにしろ)自分がこれでいいと思える決断をできなかったことなんだなと気が付いた。おばあちゃんの死から7年経った今日、ふと。多分怖かったんだと思う。あの時私はギリギリで一生懸命頑張っていたから。もっとできることがあったかもしれないことを認めるのがきっと怖かった。自分を否定してしまうような気がして。だから、自分にあの決断を強いた状況を、医療体制を否定することで自分は悪くないと正当化しようとしていた。誰に対して?自分に対して。他の誰も私を責めていない。私が私に対して何か言い訳を見つけて赦して欲しがっていたのだ。

 

 7月25日は祖母の誕生日だ。せっかくなので、祖母について書いているうちに自然とこのことが浮かび上がって来た。ほとんど楽しいことばかりだった祖母との思い出の中、唯一と言っていい位ヘビーな記憶なのに、それでも手は動いた。書いているうちに、書くまで気づかなかった当時の自分や現在の自分に出会った。心の底では後悔していた当時の自分、それを認めることが出来なかったこれまでの自分、その後悔を持ち続けて生きていくことを決めたこれからの自分。自分と自分の認識する世界が変わる瞬間に立ち会うことができた。そして、後悔は救いにもなることがある可能性を知った。今目の前にいないおばあちゃんと私との関係が書くことを通して変わったし、これからも変わっていくのかもしれない。書くことは、生きることは面白い。そう感じることのできた一日だった。ハッピーバースデー、ありがとう、ばあちゃん。

KARUISHI

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コンクリートの壁にかこまれて、沖から海水が流れ込み、そして出ていく自然と人工の間、漁港。そんなあわいのさらに境目、人工側のコンクリートの先っぽに座る私、の姿は後ろから射す強烈な太陽光(痛い)に照らされて濃緑色をして細かいちりや軽石と一緒にぷかぷかと浮いている。あるいは沈んでいる。コンクリートの壁に守られた穏やかな揺れの中で。海の中に佇む濃緑の私が、あるいは本当の私かもしれないことを誰が否定できるだろうか。私に見えている私はあちらの私で、こちらの私は一生本当の意味で私から見えることは無いのだから。みんなだって、実際私ではなく光を見ている。反射する光。だから、私は光や影なのかもしれない。認識される者としての私。認識する者としての私も、厳密には私ではない。家族、友人、先生、たくさんの他者の思想や言葉で構成される流動する容れ物。私の中の私たちは、壮大な物語の織り込まれたカーペットのようだ。色や形が変化し続けるカーペット。きっと見飽きることはないだろう。海の中の濃緑の私の色が薄くなっていく。コンクリートの影と合わさって波に溶けていく。その上を2匹の魚が泳いでいく。軽石が揺れている。

浮かぶ軽石を1つ、欲しいと思った。

ごめんね

ごめんね

きみのことは好きだけど

わたしはゆくよ

 

風が背中を押してきて

どうしようもなく

わたしはゆきたいの

たとえ死んだって

 

後悔するかもね

でもゆかない後悔の途方もない

大きさと長さに比べたら

やっぱりゆくべきだと思う

 

手にできない幸せ

たくさんあるでしょう

手にできるはずの

 

知れないことも

きっとあるでしょう

知れるはずの

 

それでも見てみたいの

その先を

たとえ地獄だったとしても

超えてゆきたいの

今の自分を

何が生まれるか

知りたいの

 

きみはきっと

わたしのことを馬鹿だというでしょう

わたしもそう思う

それでいいの

 

ごめんね

わたしはゆくよ

きみの方を

ふりかえりふりかえり

それ

それはどこかにいっちゃったよ

 

そうだよ、どこかにいっちゃった

 

どこにいっちゃったのかな?

 

どこだろうね?

 

とてもいいものだったのにね

 

いいものだった、悲しいね

 

でも、あれがなくなっちゃったから その分何かがやってくるね

 

ほんとだね

 

何がやってくるんだろう

 

わからない、でもきっと何かはやってくるよ

 

楽しみだね

 

うん、楽しみだ

 

それははどこかで幸せになるといいな

 

そうだね、願っていよう

 

それだけはできるものね

 

そうだよ、それだけはできる

犬の糞

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犬の糞を踏んだんだ。


まだ柔らかくて新鮮な、比較的大きめの糞だった。
靴の先とかそういう訳ではなく、全体的に、しっかりと、踏んだんだ。
きちんと靴底の溝にも入り込んだよ。

 

糞を踏んだ靴は、僕のお気に入りの靴だった。
多分前に話したと思うけど、この靴を買うために、毎日バイトを入れてお金を貯めていたんだ。
販売日に朝5時から店の前に並んで買ったっていうあの靴だ。
この靴は、履いた後毎回きれいに拭いてから靴箱にしまっていたし、靴底がすり減るのが嫌だから、遠出をするときには絶対に履かなかった。

 

アパートの窓から外を眺めた時、今日はあの靴を履くのにぴったりな日だと思ったんだ。
まさかアパートを出てからすぐ糞を踏むなんて思っていなかった。

3年近く住んでいて、これまでアパートの近くで犬を見たこともなかったし、ましてや糞なんて見たことなかったからね。


しかもタイミングが悪かった。それまでずっと靴を見て幸せをかみしめながら歩いていたのに、急にご近所さんが帰って来たんだ。僕は、靴を見つめてにやけていたことを見られた恥ずかしさと、その靴を履いている自分への誇らしさの両方をを感じながら、ご近所さんに挨拶をした。こんにちは、と言いながら通り過ぎて、もう一度足元に目を落としたとき、足がおりていく先に糞があるのに気付いたけれど、もう遅かった。靴はもう糞に向って降りていくところだった。僕は声にならない絶叫をあげた。絶望とはこういうことを言うんだね。

 

僕は犬や猫が好きで、よくYoutubeで動画を見るしコンビニで犬猫保護の募金もしたりするんだけどね。今回ばかりはそうもいかなかったね。一瞬、ここに糞をした犬を本気で呪ったよ。

 

けれど、思ったんだ。これは実はとても幸運なことなんじゃないかって。
だって、犬の糞を踏むなんて、そうそうないことだ。多分、5年に1度あっていいほうだ。
しかも、大切にしていたお気に入りの靴を履いて。その確率も含めると、10年に1度あっていいくらいかもしれない。自分の意思ではなかなか出来ることじゃないしね。と考えると、僕は今10年に1度の幸運があったということになる。

 

そこで思ったんだ。決意するなら今だと。
ということで、今君に告白をしに来たって訳なんだ。